まいど、いまにしです。

先日、電通の女性新入社員、高橋まつりちゃんが昨年自殺、過酷な勤務状況から
労災が認定されたことを、ブログで書いた。

 
自殺ー労災認定は、とてつもなくハードルが高い
それが認められたというのは、どれだけひどい勤務だったのか、
いや、たぶんそれだけではない状況があったことは容易に想像できる。
まつりちゃん、大変ななか、まともな思考もできんように追い込まれて、志半ばで
亡くなったんやと思うと、涙が止まらん。

そんな中、武蔵野大学の長谷川秀夫教授は
< 月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない>
<仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない>
などと指摘し、大炎上。
すると今度は
皆さまに不快な思いをさせたと謝罪する一方で、
<言葉の選び方が乱暴>
として、さらなる批判を浴びている。
ようするに、言葉の選び方が間違っていただけで、主張する内容は正しいんやというように読めてしまう。
この長谷川教授ってのは、どんな考えの持ち主なんや?
なんで、こんな人が大学教授で、人に教えていいんやろうか?

長谷川教授は、自分の子供が同じような目にあっても、
「残業100時間くらいなんやねん」
と言うのか?
新入社員が、100時間も残業させられ、寝る時間も十分でない、
家にも帰れん、そんな状況でまともな思考能力があるのか?
わかってんやろうか?

そして、武蔵野大学ってところはよくこんな人を教授にしたんやと思う。
大学教授の資格は、文部科学省の大学設置基準の中に定めている。
学位があり、業績に優れ、技能優秀ってこと。
けど、どの大学でも教授の資格審査会のようなものが設置されている。
武蔵野大学でも、同様のもんがあるという。
教授となる人物は、きちんと文部科学省に言うて、チェックしてもらい、
はじめて就任となる。

武蔵野大学のHPを見ると、仏教精神にもとづいた建学精神だとして
学長の挨拶には
<生きとし生けるものが平和で幸せに、というのが仏教の願いです>
< 若者たちが自ら高い理想を掲げ、どこまでも人格を向上させ、
自分一人のためではなく、世のため人のために尽くす>
とされている。
すごい、ええことやと思う。
だが、

長谷川教授の「残業100時間、ごちゃごちゃいうな」という主張は、
武蔵野大学の
建学精神、仏教の教えと一致する
んかいな?

ワシはどう見ても、一致はせんと思う。
なら、武蔵野大学、いったい、どこ見て、長谷川教授を教授にしたのか?
資格審査会は、どないな判断で、よしとしたのか?

死者にムチ打つような長谷川教授の言い分、ええ加減にせえよと思うはワシだけやないはず。